FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2018/11/02


初期耕運機との戦い。

 生まれも育ちも矢坂。兄弟は5人で、俺はその末っ子。農家になろうと思ったきっかけは、兄夫婦が勤め人だったから。百姓なら頭使わなくても腕力があればできるだろうと。それから百姓やる気になった。
 昔は馬だのベコだので田んぼ耕してあったども、段々と機械化なってきたんだよ。耕運機が出始めて、昭和31年ころに大沢の人が機械で田んぼ耕し始めたんだよ。そういったの見て、俺も百姓になったことだし、と思って耕運機買ったった。矢坂では一番早かったよ。だども、自分の田んぼも畑も大したことねがったから、他の田んぼの手伝いしてお金もらってたんだ。
 耕運機買った次の年に、滋賀県長浜のヤンマーさ行って講習受けてきたんだ。故障起こしたら困るからってことで。機械ばらして組み立てて、エンジンをかけるっていう講習。ところが、機械買ってすぐだったし、どこが悪くて故障したかって苦労さねまま講習受けてしまったわけだ。だから、いざ故障が起こってもわからないんだよ。そうすれば、二ツ井に代理店あったから、そこさ電話すればすぐに直してけたんだ。そしてまた機械が壊れやすかったんだ。当時の機械ってのが。

青年会の思い出。

 昔は青年会って結婚する前の人の集まりがあったんだよ。あのころは楽しみも何もないから。盆なれば踊り踊ったり、歌ったり、太鼓たたいたり、演芸会みたいなのだな。本番で披露する時のために、1か月も前から夜中まで練習してあったんだよ。
 地区ごとにそういった会があって、矢坂の場合は旧暦の7月15日(8月末~9月初めごろ)。神社の辺りさ舞台かけてな。当時、自転車なんかも流行ってきたから、自転車に乗ったり乗せられたりして、他の地区の人がたも見に来たんだよ。そして踊ってる人さ野次飛ばすった。「おー、上手だぞ」とか「何やってらったな!」とか。そういうのが起こるのが楽しみでもあったな。

出稼者と町との関係。

 結婚したのが昭和35年、57年前だな。それからは1年のうち、半分くらい出稼ぎ行ってた。主に関東方面。一番遠くて和歌山。いろんたことやったよ。冷暖房の配管工事では東京競馬場とか筑波大学なんか。あとは鉄筋屋さん、とび職、それと土木工事。だからここら辺の道路の舗装のこともよーくわかるよ。
 それと、1月の3日だか4日なれば互助会っていう、慰労会みたいなのがあったんだよ。出稼ぎの人をもてなしてくれたんだ。婦人会だのなんだので、踊り踊ったり、みんなで飲んでドンチャン騒ぎしたわけだ。あの当時、500人以上はいたってねかな?出稼ぎってのも、やっぱり、町の収入源でもあったったべな。当時の町長も毎年3か所か4か所ずつ、出稼ぎ先さ直接あいさつしに来てけたった。それもいつの間にか消滅したし、出稼ぎ自体も消滅したな。なんだか張り合いなくなったような気する。

出稼ぎ先で購入した提灯。


歩く農業から乗る農業へ。

 出稼ぎさも行ったども、春なれば田んぼやってたんだ。どんどん機械化も進んで、歩く農業から乗る農業になったんだ。新しい機械が出るたびに入れ替えてな。本当、目まぐるしい時代であったよ。
 米の値段上げてほしいって、秋田の経済連まで米価要求さ行ったことあったんだ。各市町村から何千人も集まって、みんなでハチマキして「がんばろー!がんばろー!」って。そしたら、俺がちょうどこぶし上げたとこの写真が『魁(さきがけ)新聞』さ載ったんだ。朝、新聞見てびっくりだ。そして田中角栄さんが大臣なったら米の値段、ぐーっと上がったんだ。日本列島改造論のころだものな。その当時田中角栄の母親が、「百姓を見捨てるな」みたいなことを言ったんだ。その時のこと、ずっと忘れられねな。
 田んぼも増やして、畑も増やした。労働賃金も上がった。いやー、農業いい時期だった。今では考えられないな。

我が家の歴史。

 畑もやってて、そこでは陸稲(りくとう)、オカボってやつやってたんだ。米の次に多くやってたども、時代が変わってオカボ売れなくなってきたんだよ。それから今度は農協と話して、ミョウガ。ところが、取引先の会社が倒産してしまって、1~2年で終わってしまったんだ。それから考えた結果、これだな! と思って、栗の栽培やってみたんだ。全部で4反ちょっとかな? 田んぼの方で人頼んであったから、その人たちさも手伝ってもらって。結構収良かったども、栗は虫がつきやすいんだ。ちゃんと乳剤みたいな農薬かけねば、農協でも入札でも、虫食いがあるって言われてしまうんだ。だからやっぱり無農薬は無理だな。せいぜい低農薬。
 あとは菜種も植えた。それもいがったども、田んぼと違って3年くらいすると連作障害起きるんだ。それと菜種専用のコンバインが必要で、院内岱の人さ頼んで刈り取りして、油搾って出荷するとなると大変なんだ。そして、年齢も年齢だし、機械買った分も払い終わったしで、後やめたんだ。
 当時の納品書だの労働賃金のお知らせだのって全部残ってるよ。整理さねばと思ったばって、息子に「おめんどの生きてきた証だんて残しておけ」って言われったった。我が家の歴史が詰まってるったな。いろんた苦労したな。もうちょっと生きたいなと思うばって、病気も何個かやったし、人も80歳まで生きれば機械と同じで歯車かみ合わなくなってくるった。みんな同じだ。人生いろいろだな。(聞き手 金野ちえみ)

プロフィール
きくち・あきお
昭和10年(1935年)11月23日生まれ。農業引退後は作業場の倉庫で音楽をかけ、昔の本などを読むのが趣味。鶏の飼育は現在でも続けていることのひとつ。

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