FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2019/03/01

海のそばで産まれて。

7人兄妹の2番目、長女として、旧・峰浜村の水沢で産まれました。子どもの頃は、浜に遊びに行くこともあったよ。母親が健康でなかったから、私が一番上(の女の子)だすべ、妹がた学校行ってるし、学校終わって兄弟の面倒みて、って生活してた。親もそれではかわいそうだからって、青年会入れてくれて、踊りに行ったり、遊びに行ったり。

戦争もあったけど、家では父が塩作って、塩とお米を取り換えて、ままけねとか腹減った、とかはなかった。塩は、浜にみんな小屋建てて、大きな鍋で煮て作った。最後はござで乾燥させて。パラパラと、きれーなものであったよ。

 

 

藤里町のお百姓さんへ嫁ぐ。

茂太郎さん(夫)との出会いは、昔、材木所の事務所に頼まれて行ってたの。事務所と飯場で、帳簿つけたり、販売や給仕をしていた。茂太郎さんの姉さんの旦那さんが私を見初めたんだね。俺の両親は、百姓したことないのたいした心配して、実家のご飯時には、大丈夫だべがって、しばらく気にしてくれたようだ(笑)。

23歳で嫁いできたのは「さました」の家。昔、家の上のほうに、殿様がいたって聞いた。それで、屋号が「さました」。義理の両親いて、夫の下の弟妹4人いて、にぎやかだったよ。やったごとなかった農作業は難儀もしたけど、茂太郎さん面倒見良かったし、馬ベコの餌の乾燥した草背負わせてもらったり、田んぼは近所の結っこで行ったり来たり。

舅ばあさん(姑)もよく面倒みてけだ。子どもできてからは、午後は田に出なくてもいいって、昼間から体休めにいがったず。近所の人もさましたのあねちゃ、なんも百姓もしたごとね人だばって草背負って歩いたり、田ーやるよりがんばるーって話してけで。他のお嫁さんからは、「俺の舅あてこすりで、おめのごとほめるったおなー。おれのごとなんぼがんばってもいぐみえねして」、って言われて、「あいーすかだね……俺にがっておめ難儀するなー」って話したこともあった。舅ばあさんは人っこいがったから、幸せだったなーと思う。

 

出稼ぎも人に恵まれた。

夫は農家もやったけど、田んぼ終わると、北海道に山仕事の出稼ぎに行った。山がちょっとダメになってからは関東で土方。自分でも、子育て終わって孫も産まれてから、10年家政婦に出た。夫と上野駅で別れて、お盆や正月は一緒に戻って。相撲部屋の親方についたこともあった。親方は気難しくて、私で家政婦55人目(笑)。「田植えだから家に一旦帰らねばね、あでならねがら違う人頼んで下さい」って話したら、帰る日の朝、涙ぐんでくれた。「石田さんのように言葉っこかけてくれる人いいな」って、大事にしてもらった。その後、亡くなるまで私ついて見送ったよ。人に恵まれたなと思う。

 

 

「さっとやってけれだゃあ」。

老人クラブ(高山クラブ)との関わりは、61歳の時。出稼ぎやめて家でのんびりしようとしてたら、近所の当時の会長に、会計と女性リーダーと頼まれたの。その後会長が亡くなったり、誰もやる人いなくて、一度引き受けたら、「もうさっとやってけれだゃあ」で10年。まず義理・人情でやってるった(笑)。

昔は、宴会も多かった。飲んでカラオケで踊って、せば奥さん転ぶって心配するけど、畳だから大丈夫だぁってしたり。ある程度の時間になると家族迎えに来るけど、まだ飲むってごんぼほった人もいた(笑)。旅行も行ったよ。今は4月の総会やたんぽ会、グランドゴルフの大会。高山クラブは今15人。若い人にも入ってもらわないと高山クラブつぶれちゃう! って言ってるんだけど、なかなかだ。

これからは、ボケないように、元気でいたいな。町外の娘のとこに泊まりに行っても、2泊もすると家が恋しくなる。皆さんにがんばってけれって言われるのありがたいし、やっぱり老人クラブの会長としても、もうひと頑張りだな。 (聞き手・布川)

 

プロフィール
いしだ・けいこ

昭和9年旧峰浜村水沢生まれ、昭和32年藤里町に嫁ぐ。高山クラブ会長を務め10年になる。畑でとれたものや山菜を森のえきに出している。お手製の切干大根はやわらかくて美味しいと評判。

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