FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2019/05/01

旦那さんからの猛アタック。

私の旦那(元高校教諭・池端秀雄氏)は、元々は東京の警視庁で勤めていた人で23歳の時に1度二ツ井でお見合いをして、顔もタイプじゃないしイヤだって断ったんだけど。その後、警視庁を辞めて私の勤めていた北海道の学校に先生として来てしまって。もう、そうなったら仕方ない!って結婚したんだよね。勤勉で大学も4つ入っていた人で出世コースにいた人なのに、そこまでされたら仕方ないでしょう(笑)。旦那さんは、とても真面目な人で文科系だったよ。有名な文化人とも友達で、それをみんなに言うと、嘘でしょって笑うけれども。私は正反対の体育会系の人だってよく言われていたっけ。自分が決めたことには、まっすぐ突き進んでしまうからね。

 

初めて藤里を離れた幼少期。

私は9歳になるまで、中国で暮らしていたの。満州の古城鎮(こじょうちん)というところで、今でも写真が残っているよ。父親が林業開拓団の仕事をしに行ったんだけど、母親も2歳になる一人娘の私を連れて皆でそこでの暮らしたの。藤里町を離れた1回目、昭和13年(1938年)頃の話だったかな。その後に2回、つまり3回藤里を離れるんだけど。でも、何度離れても戻ってきてしまうんだよね(笑)。

 

従兄弟が教えてくれた幻の楓シロップ。

終戦の2年後に藤里に戻ってきて、家族と親族5人が母の実家の根城岱の家に世話になったんだけど、栄養失調になっていた私に、マタギをやっていた従兄弟の斉藤武造さんが戦後の食糧難の時だったのに、野ウサギや山鶏を食べさせてくれたの。従兄弟のお嫁さんもとても温かい人で皆で仲良く暮らしたんだよ。その時に、楓の蜜を採ってきてくれて、それを囲炉裏で3日間煮詰めると甘いシロップになって焼き餅や干し餅に付けて食べたり、ジュースにしてくれたりしたの。今でも残念だったと思うんだけど、楓の蜜の採り方をちゃんと聞いておけば良かったなって。高校の時に家庭科を学んでその蜜がメープルシロップという事がわかったんだけどね。苦しい生活が続いても工夫をして生きているのは素敵だよね。

 

秋田市での学生時代。

高校を卒業して、東京の大学に入ったんだけど、お金がなくて秋田市の短大に入り直したの。その時、私は秋田市で暮らしたかったんだけど。アルバイト先の人が優しくて卒業したら卸市場の事務を紹介するよ。って言ってくれたの。その時はもう秋田市の人になろうと思ったんだけど。
父は戦病死して母が米田に一人で暮らしていて、学校の用務員をしていたの。戦後の職業婦人だったから、派手な母だったよ。私には似合わないけど。私はやがて先生になるんだろうなと漠然と思っていたんだけど、親戚の人たちから母が勤める学校で季節保育所の期間限定の先生になりなさいと言われて戻ってきてしまったの。これが2回目のUターン。その頃は、先生の数がたくさんいて、ここでは正規の先生になれなかったんだけど。

 

藤里で暮らそうと言ってくれた夫。

そして、保育所で働いていると、北海道にいる知人から、こっちなら先生の募集があるからおいでと言われて出て行ったの。夕張市の暮らしはとても豊かで楽しい毎日で、ここでずっと暮らしたい、と思っていた。ところが見合いをして、旦那さんが同じ職場に来てしまって。でも、名字の問題で母親は自分の籍をなかなか出してくれなくて、それでも長男がお腹にいた時に、説得して何とか子どもが生まれる前に籍を入れることができたんだけどね。その後、名字を残したくて娘を嫁に出したくなかった母の想いを知った旦那さんが、藤里で暮らそうと言い出して、仕方なく戻ってきたの。これが私の3度帰りの真相。こうやって何度出て行っても、戻ってきてしまうのは何か不思議な感じがするよね。何かに呼ばれているのかしら(笑)。でも、ここの人はとても温かいから戻ってきたのかな。

 

二心二体の夫婦道もいい。

自分の役割をしっかり見つけて、その道をひたすらに進んできた人生のような気もするよね。旦那さんは私にとって全く違った役割を果たしてくれていて、私も私の役割を生きてきて、互いに自分の役をこなして同じ方向に進んで行ったから、夫婦は二心二体でいいんだろうね。なんだかんだ藤里を3度も離れたけれど、家族との思い出があって、毎日、私を頼りに遊びに来てくれる人たちがいるから、ここでの生活は楽しいの。
旦那さんがいなくなった今は、一人で自由な生活しているけどね。(笑)(聞き手・根岸那都美)

 

プロフィール
いけはた・かずこ
昭和11年(1936年)1月19日生まれ80歳。9歳まで中国で暮らす。幼少期、学生期、家庭科教員時代の3度町外で暮らす。元民生委員。生け花指導者。

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