FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2019/11/01

名前の由来

 私の「満喜子」という名前は、父親が戦争で満州にいたときに私が生まれて、それを聞いて喜んだから、ということでこの名前になったの。それから父親が帰ってきたのは、私が小学校2年生のとき。
 実家は藤琴の「いとく」のすぐそば。兄弟は7人いてね、私はその長女。他の兄弟はこの町に残ったり、長野、香川、東京とかいろいろなところにいる。それでも、今も兄弟で集まればにぎやかだよ。

藤琴での子ども時代

 小学校は藤琴小学校で、今の役場の裏辺り。ちょうど、開発センターが校舎で、役場がグラウンド。そこが私たちの遊び場であったの。学校の鐘が鳴ってから家出ても、走っていけば間に合うような距離であったね。お昼になれば家に帰ってご飯食べて、そしてまた学校へ行くの。

 あのころは藤琴にも子どもがいっぱいいて、町全体に活気があってすごくにぎやかだった。夕方でもいとくの周りは明るかったから、そこに集まって鬼ごっこしたり、かくれんぼしたり、思い思いに遊びまわってたね。冬になれば、大町の通りがスケート場みたくなったの。ピカピカと光ってたもんだよ。そのころちょうど竹スケートが流行って、今みたく車もなかったし、そうやってみんなで遊んだの。今なら考えられないけど、男の子なんかはバスが来ればその後ろにつかまって滑ってたりしてたよ。当時のバスってスピードもそんなに出なかったんじゃないのかな。

 それと、子どもたちは市日の小屋建てのお手伝いしてお小遣いもらったり、そういうのんきな時代でした。

 

中畑に嫁いで

 高校卒業してからは、鷹巣にある「寺田服装学院」というところに行ってたの。私は洋服が好きだったのね。このままもう少し続けたいという気持ちがあったから、東京の学校へ行こうと思ってたの。ほとんどその通りに決まってたんだけど、縁があってここ(中畑)へ嫁ぐことになりました。私が21歳のとき。それまでここの家に来たことなんて一度もなかったし、本人とも2、3回会っただけで嫁に来てしまったから、かなり迷いもあったんだけど後悔してないね。

 主人も主人の父親も学校の先生であったから、多分サラリーマン生活なんだろうなと思ってたら、田んぼもあるし畑もあったの。そのころはお義母さん一人で頑張ってたから、私はそれの助手。

 困ることもそんなになかったけど、買い物は少し困ったね。実家にいたころは、目の前に「伊徳商店」(いとく以前の名称)があったから。何か足りないものあれば、料理の途中でもそのまま走って買いに行けたの。まず、買いだめするってことなかったもの。だからここへ来て、2日くらい先のことも考えて買い物しないといけなくてね。それでもリヤカーで物売りに来てくれたり、小さいお店もあったりで、結構便利であったよ。

 当時は主人の兄弟3人とも一緒に暮らしてて、自分の兄弟たちよりも親しみあるみたいだったよ。何か困ったこともなんでも話してくれるし、仲がいいの。地域の人方もみんな面倒みてくれて、私はすごく幸せでした。

 

家族付き合いが当たり前

 学校の先生方もよくうちに来てくれたの。今は林になってるけど、上畑のところにスキー場があって、生徒連れてスキーして、そしてうちに寄り道して帰るような感じ。学校の方では夏は登山したり、レクリエーションが結構多かったんじゃないかな。楽しい学校であったよ。だけどそうでなくても、お祭りでもなんでもね。何かあればうちへ遊びに来てくれて、結構楽しくやってあったよ。

 あのころはみんな家族付き合いで、一緒にスキーに行ったり旅行に出かけたり、そういうのもまた楽しかった。

 

長く続けてきたこと

それと、私も今まで色んな経験をさせてもらいました。「結核予防婦人会」というのがあって、そこでもいろいろな活動をしてきたの。ハンセン病の施設が青森にあるんだけど、そこには毎年慰問に歩いたね。初めに行ったときは、ハンセン病が伝染病でないって分かったころ。最初は衝撃的で、どうしていいか分からなかった。それでも毎年行くようになると、患者さんも自分たちの身の上話とかをしてくれるようになってきてね。そうなってからは、行くのが楽しみになってきたの。

 うれしいことも辛いことも、色んなこと話して。10年くらいそうしていたら、いつの間にか施設も立派なものに建て替わってた。きっと政府の補助が入ったんだろうね。病気に対する認知のされ方も変わってきたんでしょうね。それと、民生委員は24年間やったの。〝やった〟というよりも、〝務めさせてもらった〟という感じ。最初に任されたときはどうしようかと思ったけど、訪問すれば喜ばれるし、頼りにされればうれしくてね。そういうのがあって、長く続けてこられました。24年間、長かったぁ。

幸せな暮らし

 今は大正琴やったり、切り絵やったり、押し花やったり。全部私の趣味。なんでもやってみれば面白くって、またそういう細かい作業が好きなの。私も今まで結構好きにやらせてもらったね。

 それと、うちのお嫁さんがすごくいい人で、なんでも話してくれるし、お互い好きなこと言い合って。もう、私の娘みたい。やっぱりお母さんがいい人だから、孫たちも「おばあちゃん、おばあちゃん」って優しくしてくれるの。

 今まで色んな役に引っ張られて、家に居ないでよく歩いた。だけど、今までこうして幸せにやってこられたのは、やっぱり周りのみんなに助けてもらったおかげだと思っているよ。

(聞き手 金野ちえみ)

 

プロフィール
 かとう・まきこ
 昭和12年(1937年)2月22日生まれ。藤琴出身。民生委員を24年間務める。現在は大正琴や洋裁、押し花などの趣味のほか、県外に住む孫たちに会いに行くことが楽しみのひとつ。

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