FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2019/04/01


家の手伝いで学校を休みがちな少年時代

生まれた年は昭和9年5月4日。生まれ場所は、ここ上茶屋です。この家の隣、そこが本家。 金沢小学校は6年間で卒業して、次の年から中学校。小学校と中学校はおんなじとこさあった。中学校は3年間だが、なんぼも行かなかった。家に馬いたから、草刈ったりして養って。畑作ったり、田んぼ作ったりいろんなことやった。たまに学校だ。たまに行くから、進んでいってるベぇ、本見たって全然わかんねかった。そんなもんだった。うちの親父は炭焼きであったから。小学校1年生の時から、夏休みとか、冬休みとか山行って手伝ってた。わら持って行って、わら叩いて縄なって炭焼いた。山さ泊まって。それで覚えたなあ。昔って長靴なんてなかったもの。わらじの被さったやつ、冬はああゆうの履いたの。きれ巻いて。中学校3年生の時、親が病気して入院したから、今度俺一人で炭を焼いた。学校さ行かないで。中学校の時は馬を使って田んぼをやった。苦労したわけじゃない。苦労なんて忘れてしまった。

 

冬は出稼ぎに

若い時は出稼ぎに歩いたんてな、しばらく。東京、京都、岐阜、名古屋、北海道、いろいろ行った。兄さんが、山の仕事、昔は山師と言ったもんだけど、木切ったりしておったからそれでこう回って兵庫県までも行った。集材機の運転もしたし。名古屋の土建さも行った。65歳まで土方やった。道路作り、河川の鉄塔組みとかもした。昔はチェーンソーでなく手で木を切った、のこぎりしかなかったもの。10人ぐらいまとまってのこ持って。それが二十の歳のころだな。

 

屋根職人の仕事

冬は出稼ぎして、夏は屋根の職人であった。職人を始めたのは中学校卒業して2年目だな。これは30年、40年ぐらいやった。昔はこの辺り全部萱(かや)屋根。昭和20何年の大火で焼けたから、16軒全部。それからじょじょに萱屋根は自然に無くなった。昔はほとんど萱屋根だよ。4月から12月まで130日ぐらい。屋根の仕事で回った。
3年で弟子を卒業して、師匠と二人で屋根こさえてくれと言われれば歩いた。師匠は70歳いくつまで歩いた。わら仕事、ここの集落の子どもがたさも婆さんがたさも教えたった。週に1回か2回集まってわらじ作ったりいろんなこと教えるの決まって、2、3年続いたか。
屋根登るのは最初からおっかないと思わなかった。高いところが好きだった。木登り好きだった。橋の所に小屋っこあったすべ、渡って来るところの。これは20年になる、1週間ぐらいかかった。一人でやったから。

 

依頼主の家に泊まり込んでの屋根ふき

10月ぐらいから山から萱を刈ってきて小屋に入れておく。そして、春まで乾燥させる。4月5月ごろまで。乾かないと萱の葉で手が切れるし。草刈り山、そうゆうとこさ。3月、4月ぐらいに火を入れて、山をきれいに焼いて。そうすると、きれいにまっすぐな萱が生えてくる。20年、30年に一回ぐらい屋根の萱を変える。昔は素波里ダムの下に16軒あった。そこにも行った。行ったとこの家に泊まって、ごちそうになって。1週間から10日ぐらいかかった。萱のにおい、すすけたにおい、真っ黒けになって、人の顔だか鬼の顔だかわからなくなってくるだよ(笑)。そのころは風呂もなかったもの。ここから道具担いで、車もねかったし、歩いて。水無にも15日間泊まったな。6軒、7軒あった。今は全部下がってしまって誰もいねえけど。全部萱ぶきであったもの。小比内(こびない)さ回って山道だけ、素波里まで4時間ぐらいかかって歩いて行った。昔はもっと悪い道だった。道路も良くなかった。三輪車が流行ってきて、舗装になっていった。
NHK生放送や朝日テレビに出たり、新聞の取材受けたりしたなぁ。十六貫トンネンルの近くにある萱ぶきの小屋作った時取材がきて、バッジもらった。家の土台は自分で作った。わらの作業場やその横の部屋も自分で作った。わらの作業場にいってみるか。

物作りの喜び

わらで何を作っているかというと、つっかけ、踏み俵、手袋、冬わらじ、鍔釜(つばがま)、炭俵、蓑(みの)、小さなわらじの飾りなど。この踏み俵っていうのは、こう履いて歩いて雪道を踏み固め、歩きやすくするもの。こういったものを冬から春先に作る。畑作りもそうだけど、物作りは好きだな(笑)。(聞き手:鈴木幸雄)

 

プロフィール
いしだ・よしろう
1934年(昭和9年)5月4日生まれ。幼少の時から家の仕事の手伝いで炭焼き、農業、畜産、藁細工をする。中学校卒業後、屋根職人に。本職の茅葺屋根の職人をしながら、冬は出稼ぎに各地を回った。

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