白神山地のふもとの町に「カマタ写真店」を構え、親子二代にわたって自然の写真を撮り続けている方がいます。二代目店主の鎌田孝人(かまたたかと)さんは、東京で専門技術を習得し、お父様が独学で始めたお店を支えるためにUターン。どんな思いで町や白神の自然を見ているのか、お話を伺いました。
4×5(シノゴ)サイズのフィルム用大判カメラ。かつてはこれを抱えて山に入っていたそう。
(後編)
プロのカメラマンとして
東京から戻って来て、店を継ぐ形というか、店に入ってやってたんだけど、いかんせん婚礼の仕事がほとんどできなかったの。それで、婚礼写真協会というところの講習に通ったね。2年間、夏の間だけ、1週間泊まり込みでやるやつ。うちの親父も写真屋はやってたけど、あくまでも元が素人だから、婚礼の仕事とかは下手だったんだよね。学校で勉強したわけでもなく、自己流プラス人から聞いたやり方だったから。写真協会には入って、講習とかそういうところでは見て覚えようとしたみたいだけど。親父からは、明るさをどうするとか、絞りやシャッタースピード、ISO感度ってのがあるよってことは教えてもらったけど、基本はほとんど外で勉強してきたかたちだね。戻って来て最初のうちは、親父がやってることを見てたんだけど、そのうち親父も俺に投げる感じになったね。機材もあったからそれで撮ってて、あとは少しずつ入れ替えるようにして。
大学は人物コースで、就職してからも人を撮ってきたけど、一番撮りたいのは何だったんだろうね(笑)。写真が嫌いなわけではなかったんだろうけどな。山に連れてってもらって、岳岱の凄さで「すごい」と思ってカメラを構えて撮ったら、一緒にいったうちの親父の友達も感心してくれて。親父も感心してくれて、「俺と撮るものが違う」って。それでちょっと気を良くして、自然も撮るようになったのかな。自然を撮るようになったのは、東京から戻って来てから。
風景写真は好き。そういう意味では、環境がそろってたから、他の人よりは写真に対する意識とか、選別する力ってのは持ってたと思う。見る目、写真の見方みたいなものは、少しずつ自分の中に入ってきてたと思うけどね。自然の写真を撮るようになって、役場の仕事も受けるようになって撮り続けてるうちに、自分の写真はまだまだ下手だったんだけど、やってると常にフィードバックさせていくじゃない。自分の写真を見ながら。写真雑誌とかも見ながら、そういったものを蓄積させていくと。数多く撮らなきゃ写真って上手にならない、っていうのは分かったね。で、撮ったのは自分で研究しないとだめ。
店内に飾られた白神の写真たち。1か所に1時間近くとどまって撮影したものもあるそう。
結局役場の仕事を受けてる都合上、植物をある程度知ってなきゃいけないというのもあるし、親父に聞いてね、勉強していた。そういうのは嫌いじゃなかったんだね。ただ、鳥は覚えなかったね。うちの親父も鳥詳しくはなかったね。とは言え、うちの親父はイヌワシは見てるからね。小岳(こだけ)に行った時に見てるんだよね。やっぱ山に行ってる回数が違うのよ。あとはやっぱり山が好きだから、好きな人には神様がご褒美くれるのかね(笑)。親父、やっぱり山好きなんだよね、苦じゃないもんね。なんぼかは親父のDNAを継いだところはあるかもしれないけど、ただ親父みたいに茂みとかに入っていく勇気はないけどね。虫とか嫌いだし(笑)。
親父が撮ったものを俺の技術で
親父が認知症になってからだよ、一番大変だったのは。亡くなる3年前に美里園(グループホーム美里園)に預けたの。しばらくして病気が見つかって、そこでも看られなくなって、特別養護老人ホームに行くことになった。介護は、親父これ怪しいなとはっきり思ったのが80歳の時、そこから亡くなったのは91歳。家で看ていたのは8年弱。84~85歳までは良かったんだけど、日付や季節が分からなくなってきて。だいぶ認知症が進行してきてからは、1日に6回以上出歩くとかね。で、いつの間にか、ポケットの中によそ様の家の庭になってる実とかを入れてくるのよ。山を歩いてる感覚で採ってたんだろうね。それで迷惑かけられないからデイサービスに預けるようにして、美里園に入る前にはほぼ毎日デイサービスを利用していた。
一昨年(2021年)の12月12日に亡くなってね。世界遺産登録日の翌日っていうのもあるし、12月12日って「山の神の日」なんだよね。同じ冬に、岳岱の400年ブナも倒れたし。なんだろうね。
親父の撮った写真のイメージをなぞってるときはあるよね。「あれ、これ、親父のイメージだよな」って。それはある。人にも言われたことがあるし。親父が撮ったものを俺なりに撮ったらどうなるのかな、と思って撮ることもある。親父の技術で撮ったもので、もうちょっとしっかり撮ればいいのにと思うことはあるわけでしょ。それを、自分の技術でもっと良く撮れるかなという思いもある。人が撮った写真は、印象的なものは頭の中に残っていたりするでしょ。例えば、好きな写真家に丹地保堯(たんじやすたか)という人がいるんだけど、そういうものにも影響受けている。親父の写真もそうだし。
時代の流れの中で
仕事が軌道に乗る乗らないってのは、時代の流れの中でやらなきゃいけないことをやってきただけで、やっぱり今が一番大変じゃないかな、仕事がなくて。今、学校の撮影は、学級写真と入学記念・卒業記念の写真だけ。大館のほうでも知り合いの仕事を手伝っているけどね。
うちの親父は基本的な技術を学んできた訳ではなかったから、どうしたって行き詰っていくよね。そこで修行してきた俺が帰って来て、何とか盛り上げてという感じだったんだけど、俺が帰ってきてからしばらくしてカラープリントの自動化が進んで。資金を使ってラボを立ち上げ、輸入資材で格安のカラープリントを提供する会社がいくつか現れて、写真店以外に帳合店を全国展開してきたの。価格破壊だよね。結果、店頭受注の仕事がどんどん減っていった。そうしているうちに、2000年代に入ると、デジタルカメラが急速に進歩・浸透して、さらに携帯電話の普及でフィルムの需要が激減。店頭でフィルムやプリントを取り扱っているだけの店や、そこに主力のあったラボは廃業せざるを得ない時代になってしまったんだよね。
レンズについて説明中の鎌田さん。機材は温度・湿度管理のため、防湿庫に保管してある。
どうしようか、今。ネットのライブラリに写真を載せたら売れるのかしら。Adobeストックとか、あるじゃない。でもあっちはイメージカットだもんね。そういう感覚、俺、持ち合わせが少ないんだよね。そういう感覚って時代の中で培われてくるもんだよね。やっぱり、ちょっと小洒落た感覚の写真じゃないもんな、俺は。どっちかというと、しっかり型にはまった写真の世界だからね。
スタジオでの撮影は、2006年にデジタル一眼レフカメラを購入して、証明写真からデジタル化を始めた。それからは、サイズの小さい撮影はデジタルで、婚礼とかネイチャーはフィルムでと進めて行って、2012年に高画質のデジタル一眼レフカメラを買い足して、全てデジタル化していったの。自家処理の白黒暗室、この階段の横に本当に狭いけど暗室があるんだけど、そこも物置になっちゃった。遺影撮影用に使っていたんだけど、白黒のみ対応できる暗室で、デジタルでカラー化していったので必要無くなって。そもそも近年では、遺影も葬儀社で自製してしまうものね。
デジタルでも見応えのある自然の写真を
10年くらい山に行かなくなった期間があって、親父がおぼつかなくなって、店を任せていられなくなってきたっていうのもあるんだけど、その前にデジタルに変わりつつあったので、そうすると親父もう分からないでしょ、どう対応すればいいか。デジカメの使い方も分からないし。そこでまず1つ店から離れにくくなって、山に行ってられなくなったのよ。出来るだけ俺が店にいたほうがいいなということになって、それで山から遠ざかった。あと、大館の仕事も受けるようになって、ますます店を閉めることが多くなっちゃうと、出来るだけ本当はここにいなきゃいけないなっていう意識になるので、山に行かなくなったのよ。
そんな中、去年、佐尾さん(佐尾和子さん、白神ぶなっこ教室)が、そろそろうちもいつ辞めるか分かんないから、毎年作っているカレンダーをもう一回白神の写真でお願いしたいって依頼を頂いて。10年ぶりに山に行って慌てて撮り足して、前に掲載したものも使って、今年(2023年)のカレンダーを作ってもらったの。
店の状況で山に行きづらくなったこともあって、色々重なったんだよね。いくらかはデジタルでも撮っていたんだけど、なかなか思うようにはいかなくてね。で、去年の暮れにまたカメラを新しくしたのよ。4,500万画素のカメラにして、前のカメラから一気に画質が上がったの。それと、画像処理のソフトとか機材にお金をかけたから、そこそこデジタルでも見応えのある写真を自分でも作れるようになったかなって。そこまで来るのに、なかなか難しかったよね。
結婚は38歳。帰ってきてから11年で結婚。二ツ井町荷上場の人。子どもは男の子2人。長男はちょっとカメラやるけどね、次男はさわりもしないよ(笑)。うちを継げとは間違っても言わないし、俺の代で終わりだと思ってるしね。
店舗2階のスタジオに続く階段には、ご家族の写真が大切に飾られている。
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<あとがき>
普段から私が知る鎌田さんの姿は、撮影時に被写体が緊張しないよう穏やかに接する姿や、祭りのお囃子など、笑顔でコミュニティの中核を担う姿でした。
一方、今回お話を聞く中で新たに見えたのは、プロのカメラマンとして自分自身のあり方を問う厳しい視点。そのストイックさが、独学でお父様が始めた店を支え続け、また、ふんわりしたイメージではない、白神の本当の姿を伝える骨太な写真を生み出しているのだと思いました。
どこにいても、いくつになっても、また、時代の変化や家族の状況など難しさがある中でも、目の前の仕事に真摯に向き合う大切さを教えてくれていると感じます。
(聞き手:わたす研究所 佐々木絵里子)
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この記事は「聞き書き」の手法を使って取材・執筆しています。「聞き書き」とは、取材をし、文章を書き、まとめていく際の1つの手法。取材を受けてくださる方を訪ね、その人の人生や知恵・技術について話を聞き、話し手の話した言葉のまま、文章を作成し、編集・整理して読み物にしていきます。詳しくはをこちらご覧ください。