FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2024/01/29

白神山地のふもとの町に「カマタ写真店」を構え、親子二代にわたって自然の写真を撮り続けている方がいます。二代目店主の鎌田孝人(かまたたかと)さんは、東京で専門技術を習得し、お父様が独学で始めたお店を支えるためにUターン。どんな思いで町や白神の自然を見ているのか、お話を伺いました。

 

 

「カマタ写真店」店舗前で、鎌田孝人さん。

 

 

(前編)

 

写真屋のルーツは太良に

 

昭和32年生まれで、お袋が高石沢(地区)の出身で高石沢で産み落とされました。生まれて一年ちょっとは太良(だいら)に住んでいました。俺の爺さんが岩手の出身なんだけど、こっちでいう”かまど消し”で財産失って、あちこちの鉱山を転々として太良鉱山に来て。親父も太良で働いてたんだけど、33年に閉山になりまして、自分がまだ1歳の頃になるけど、親父が足尾銅山(栃木県)に仕事を変えたんですね。そこは1年くらいで、その後、今度、岩手の石灰山の仕事の方に転職して。それも2年は持ってないんじゃないかな、1年くらいかな。

 

足尾銅山も岩手も、記憶には全然ないよ。物心ついた時には、もう藤里にいました。この商店街に床屋で「TAROKU」さんってあるじゃない? その隣に、今、空き地があるの。そこにかつて家があって、そこでうちの親父が2〜3畳足らずのお店を開いて、フィルムを売ったりカメラを売ったり、写真屋さんをやってました。そこに引っ越したのが、大体俺が4つくらいの時じゃないかな。

 

写真屋のルーツは、うちの親父が太良鉱山にいるときに、趣味で写真をやり始めて。あの当時は写真やる人もいなかったから、白黒で自分でプリントして。閉山で足尾に移って、岩手の石灰山に行って、やめて。そしたらちょうど、この町にあった写真屋さんが無くなって。で、それを聞いて、写真を仕事に出来るかもしれないと思ったのかな。お袋の地元でもあったし戻ってくることにして、その家を借りて。役場の白黒のプリントとか、なんとか稼げたみたいね。お店は、俺が小学2年生の時に今の場所に移ってる。

 

 

子どもの頃

 

子どもの頃は道が舗装されてなかったのを覚えてるよ。雨が降るとドロドロ。俺が小学校1年か2年の時だったかな、舗装されたの。昔は雪が降ると寄せるわけじゃなくて圧雪していくだけだから、店から2段くらい雪で階段作って登ってたな。車もそんなに走ってないし。お店もいっぱいあったよ。寂れた感じのない、賑わいのある町だったよ。

 

小学校は藤里小学校で、中学校は藤里中学校。勉強はサボる方だったな。運動も苦手だったし、走りも遅かった。中学1年生の時は化学クラブだったんだけど、次の年、顧問だった先生が転勤になって、あとを継ぐ先生がいなくなって自然消滅。ブラっとしてたら、友達が「暇だべ?」って無理やり連れていかれたのが吹奏楽部。その時は藤里中学校ブラスバンド部だったけどね。俺がやってたのはトランペット、サード。無理やり入らされて入ったら抜けられなくなって(笑)。まあお陰で祭りの笛は吹けてるんだよね。唇引っ張ってやる感じとか、息をどう効率よく使うかとか呼吸の仕方とか。ブレスを長く吹けてる感じはあるね。お祭りに参加したきっかけは、中学の時に友達に誘われて高校1年まで3年くらいやったかな。あとは東京行っちゃったじゃない? 踊ったのは中2〜高1までだったんじゃないかな。

 

初めてカメラを手にしたのは、小学校3~4年の頃かな。親父から遊びで使ってもいいよと一台カメラ預けてもらって、その当時はハーフって言って、フィルムの1コマのサイズが35mmの半分なのよ。そのカメラはもうないな。友達の写真撮ったりしたな。あの当時は遊びに行くっていうと、その辺の山じゃない。山に行って、友達が飛び跳ねたりしてるのを撮ったり。大体の使い方は親父に教えてもらって。なんとなく撮れてたんだよね。周りに写真や機材があったから、なんのアレもなくすんなりそのまま。あるのが普通で、使えて当たり前で、なのかな。嬉しかったのかもしれないけどね、自分が撮ったものが写真になったのが。ちょこちょこたまに撮ったりしてて、趣味でプラモデルをやってたから、山の削れたところとかちょっとした空き地で飛行場みたいに作って、戦場を再現して、零戦(ゼロ戦)とかメッサーシュミットとかの戦闘機を並べて写真撮ってた(笑)。どう撮ったらかっこいいとかね、今思えばちょこちょこ工夫したりもしてたんだけど、その延長線上でずっとあこがれてたのが、あの頃、怪獣映画が出て来るじゃない。ゴジラとかガメラとか。その特撮シーンがすごい大好きだったのよ。いいな、いいなと思ってて。俺、写真屋継がなかったらあっちの世界に行きたかったかもしれないね。特撮。

 

店内にある作業スペース。パソコン作業はタッチペンで行う。

 

 

うちの親父の自然への関わりは、最初の功績としては岳岱(だけだい、岳岱自然観察教育林)の保存だよね。その時は、写真こそ観光に大事だろうということで、観光協会を手伝っていた。その頃、岳岱が切られるという話になって、慌ててそれをきっかけに自然を守る方にいったのかな。秋の藤駒(ふじこま、藤里駒ケ岳)登山、あの時は「藤駒」とは呼ばずに「駒ヶ岳」と呼んでいたからね。駒ヶ岳登山っていうのがあって、自分も何回か一行に混じって登ったことがある。小学5年生頃だったから、おにぎりとズックと身軽だったね。それ以外でも、親父が仲間と山に入る時にくっついて行ったりとか。

 

 

東京での修行時代

 

高校卒業して、東京写真大学っていうのがあって、千葉に本校の4年制、中野坂上に2年間の短期大学があって、自分は中野坂上の短大に通ってた。今はそれが統合して、東京工芸大学って名前になった。大学で勉強していたのは、普通に写真。2年生になると専門課って言って、映画コース、商業写真コース、スタジオ写真コースとかって色々分かれるんだけど、俺は人物写真コースを取ったんだよね。小学校高学年の時から、自分は家を継ぐんだと思っていた。そこには何の疑いもなく。

 

中野坂上の学校に行ったときは、アパートを借りて、丸の内線の方南町だったかな、環七沿いだったよ。最初、東京に行った時はアパート決めてなくて、おじさんが高島平にいたから、2ヶ月くらい居候してた。その後一人暮らしになって、幸い先に行ってた高校時代の友達がいたから、米の研ぎ方とカレーの作り方を教えてくれて。たまに大学の友達も遊びに来たりとか。暗室が持てないからって俺の部屋を暗室がわりに使ったりね。ホームシックはなかったね。

 

俺、世の中の生き方を全く知らずに大学に行ったでしょ。アパートも決めずに大学に行ったし(笑)。就職する時も、どこにいけばいいのかもやり方もわからず、のほほんとしてたら教授に呼ばれて、「ここ、今募集してるから行ってみないか」って言われて、新宿の京王デパートにテナントで入っていた「京王フォトスタジオ」というところに、とりあえず入れてもらって。

 

6年間、何とか勤めたって感じ。自分はブライダルがやりたくて入ったんだけど、ブライダルはほとんどなかったね。多かったのは七五三、成人式、ポートレート。入社した当時はカラー写真に主流が移っていった頃だったんだけど、それでも証明写真はほとんど白黒でね。入社して慣れ始めたころに、証明写真の撮影を習うんだ。接客はもちろん、形よく撮影するノウハウを習うの。1日50組を超える証明写真のプリントがあったりして、それは全て手作業で処理していたよ。同期入社がもう1人いたので、数か月交代で暗室マンを2年半くらいやっていたかな。

 

修業期間に撮影した自分の証明写真。「ブローニーフィルム」を使う中型カメラで撮影。

 

 

暗室以外では、撮影助手。先生(社長)やチーフがすぐシャッターを切れるように、スタジオの準備をする。ライトや背景、カメラの移動、フィルムの装填とか。カメラは、人の背丈もあるような「アンソニー」っていう大型のものや、「ブローニーフィルム」っていうフィルムを使う中型カメラ。アンソニーはキャスターがついていて、丸いハンドルで高さや角度調整、ギア付きのノブでピント調整とかができた。助手をしながらポージングやタイミング、対応力を培っていくの。とても勉強になりました。それから、暗室マンを後輩に譲ってからは、ネガ修正を身に着けました。鉛筆の芯を極細くしてネガに細工をする「レタッチング」という作業なのだけど、今デジタルになっても、どこを修正してよりよく見せるかという点でアナログ時代の技術が生きているね。“より美しく”がモットーです。やりすぎのこともあるかもしれないけど(笑)。

 

アナログ時代の「レタッチング」で使っていた極細の鉛筆。

 

 

入社する時は、勤めても5年くらいかなと思っていた。ただ、自然の流れで帰ってくることになったかというとそうでもなくて、俺もバカだよなと思ったのは、入社するときに「10年くらいはいられます」って言っちゃったのね。だから、5年ぐらいだと思いつつも、そう言ったから10年近くいたりするのかなと思いながらいたんだけど、うちの親父が仕事を代替わりしないと、ついていけないと。自分も山の仕事、山の保護の運動も忙しくなってきたし、若い客がどんどん離れていくから「お前帰ってこい」と。で、会社にお願いして。お前10年いるって言ったじゃないかとかって言われたけど、でもあの時辞めてないと辞められなかったかもね。

 

 

(後編に続く)

【私のいきかた】鎌田孝人さん(後編)

【私のいきかた】鎌田孝人さん(番外編)

 

 

 

 

 

 

この記事は「聞き書き」の手法を使って取材・執筆しています。「聞き書き」とは、取材をし、文章を書き、まとめていく際の1つの手法。取材を受けてくださる方を訪ね、その人の人生や知恵・技術について話を聞き、話し手の話した言葉のまま、文章を作成し、編集・整理して読み物にしていきます。詳しくはこちらをご覧ください。

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