FUJISATO LIVING COLUMN

  • ヒトビト
  • 2017/12/04

隆之介さん90歳、父が作ってくれたきっかけから今日まで書を続けています。

70歳を過ぎてからも書を学ぶ向上心。家族も知らない、隆之介さんの藤里ストーリーをご紹介。

 

きっかけを作ってくれた父の想い。

 

 生まれは粕毛村です。父親は畳屋をやっていて、42歳のとき、私が小学5年生のときに亡くなってしまったんだけど、字を書くのがとっても上手だったんですよ。当時は手紙を書ける人があまりいなくて、親父はみんなに頼まれて毎晩のように手紙書き。「おめぇんど。書きてこと、みぃんな喋れ」って、話をまず全部聞いて。それから全部書いて、読んで、どう書いたのか一つ一つ教えていた。今でもよく覚えてる。

 学校で手本を見ながら文字を書く練習をするんだけど、親父ね、何も言わずに自分が書いたものを私の手本の中にこっそり挟めていたんだ。授業中、知らない顔をして親父の手本を見ながら書いていた。私に期待してたみたい。「手紙や書を書けるように」ってね。

 

絶対に藤里に帰ってくる。

 

 兄弟は兄が2人いて、1人は戦死してしまったんだけど、一番上の兄は戦死せずにフィリピンから帰ってきた。私も中学校を卒業した後、東京で1年間働いてから、昭和18年(1943年)に海軍に志願した。東京の会社では毎日軍事教練があった。午前中は仕事をして、午後から軍人の教育を受けたの。こんなことだったら、早く海軍に入ってしまおうって。横須賀の兵団の工機学校に入って、機関について学んだよ。けれども、戦地に乗っていく船がもう無くて、北浦という霞ヶ浦からちょっと離れたところの航空隊に配属されて、飛行練習機の離発着の見張り役をしていたよ。

 特攻隊に志願しないかって言われたこともあったなぁ。でも私は、「戦争が終われば帰るんだから、特攻隊にはいきません」って言ったの。なぁんと、そうしたらもう上官に……(笑)。海軍では顔は叩かない。顔を叩けば頭が悪くなるんだって。バットみたいなもので、お尻を力いっぱい叩かれる。みんな特攻に志願して、死ぬ気で行ってしまっていたんだよ。私は藤里に帰って、農林センターの汽車の機関士になるつもりでいたんです。機関兵だったからね。汽車の釜炊きでもいいから、「絶対に生きて藤里に帰るんだ」って。そう思ってずっと過ごしていたよ。

 

 

70歳を過ぎてから書道の大学へ。

 

 終戦して藤里に帰ってきて、役場に入ったの。役場も色々あったけど、勲五等瑞宝章を叙勲したことは本当にびっくりして、一番嬉しかったなぁ。私は運が良かったんだ。

 退職するときに町長に話したの。「町民のため、本当に精一杯頑張ったので、あとはもう頑張りません」って(笑)。それで自分の好きなことを高めるために、書道の大学(日本書道美術館特設講座書道大学)に通い始めたんだ。書道講座ではずっと習っていたんだけど、どこからともなく大学の入学案内が届いたの。東京で月1回だったけど大学に2年、大学院に2年、大学院専攻科に2年通って、教授の資格を取りました。夜行列車「あけぼの」に乗って東京に行って、午前は講義で午後から書の実技をやって。また夜行列車に乗って帰ってくる。大変だったけど、楽しかったなぁ。

 

まっすぐな想い。

 

 人の信念って、不思議なものだよ。特攻隊にしても、今こうして生きていられている。役場にしても、一生懸命、誠心誠意やっていれば誰かが見てくれていて、びっくりするような叙勲を受けた。退職した後も、あとは自分の好きなことだけをやるんだからって。やっぱり、それもその通りに進んでいった。趣味だけで生きてきたようなもの。今振り返ってみれば、私は幸せ者なんだなぁ。

 オリンピックに出る人が、書道を学びに来る。座禅と同じで、最高の精神修行になるんだって。背筋をスッと伸ばす。正しい姿勢で集中して何かに取り組むのは、自分の心にとって、本当に良いことなんじゃないかな。私の習字の塾は、寂しいけれど3月いっぱいで終わるんだ。けれども、書道の用紙がまだまだ山のように残ってる。私がお手本を出したり、作品の品評をしたりしていた書展に、これから作品を出しちゃおうかなって思うくらい。紙を使い切るまで、これからも、うんと頑張って書かなくちゃね。

 

 

 

プロフィール

すがわら・りゅうのすけ

昭和2年(1927年)1月2日生まれ。書道の名人。雅号は「之龍」。昭和23年(1948年)に粕毛村書記として就職。町制施行後は産業課長、企画整備課長、藤里町収入役、藤里町助役を経て平成元年(1989年)に退職する。約40年間にわたり町政の発展に尽力し、瑞宝章など数々の表彰を受ける。油絵やスキー、囲碁やピアノなど多彩な趣味を持つ。

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