生まれたときから百姓一筋。
山田昭一と言います。私は堅苦しい人間でもないし、立派なインタビューを受けるような人材でもないと思うけど(笑)。14、15年前に、コンバインに手を挟めて、ケガしている身体障がい者のような感じですけれども、まぁ農家にはそんなに支障なく、今まで現役で頑張っています。
歳は79歳と3か月になります。藤里で生まれて、ずっと一の渡。生まれたときから百姓であった。手伝いはもうね、人手が少なかったせいか。私が3歳の頃かな、父親が営林署の山へ材木を積んでくるトロッコに乗ってきて、ちょうど橋の上から落ちて足をケガしたんだ。私が父の顔がわかるようになったときにはもう、障がい者のようになってた。あの頃は機械が無いから、小さい頃から背負うもの、担ぐものはほとんど私やった経験あります。忙しければ、学校に行って「お暇ください」って言えば、出席が丸になるんだもんな。あの頃は戦争の時代だけれども、農家を大事にする時代でもあったな。
孫爺さんは博労(ばくろう)。家畜商。牛か馬か、飼ったり売ったりする商売ね。うちの孫爺さんはちょっと変わった人であった。樺太に親方として20、30人に頼んで連れて歩いたり、藤里の町会議員を16年間やったり。町のやり手だったけど、温厚な人であった。地域の人からは私がその後を引き継ぐんでないかとよく言われてあったんだけれども、私はあまり勉強しない人で、それこそ田んぼの手伝いばっかりしてあったもんだから。今なってみれば、ずっと藤里は好きであったから、特別に偉くなって、という気持ちもなかったな。
旅行と機械が好き。
中学校出てからは百姓兼出稼ぎ。百姓に生まれれば百姓して暮らせばいいという時代であった。頭良かった弟は東洋大学さ行って、1か月に12、13万円うちから仕送りさねばならねぇの。金かかるし、百姓の収入でも足りないし、俺は兄弟のために身を粉にして働いたな。田んぼ終われば出稼ぎ。40歳の時に母親がガンで亡くなったので、出稼ぎをやめた。坊中に成田建設ってあって、近いから、田んぼ終わればそこで働いたの。出稼ぎは、苦しいときもあったけど、今思えば全国行って旅行のような楽しさもあったな。
旅行は好きだなぁ。昔は青年会活動って盛んで、そのグループで中通地区で無尽講作ったの。十人会って、その無尽講のリーダーであったんだ。積み立てして旅行さ歩いた。伊豆箱根、九州、広島、ハワイにも。知ってる人によく、また旅行してきたってぇ?ってたまげられるんだな。まず、これまで私も苦労したから、楽しんで余生を暮らしたいというのが今の気持ちだ。
百姓は面白い。
機械は、建設関係の重機の免許はほとんど取得した。22、23歳で大阪で出稼ぎしたとき、レッカーがすぐ近くの教習所にあって、俺長男でねばここで大型レッカーの免許取りたいと思って、でもうちさも金送りたいし。あのとき、俺が次男であれば大型機械の運転手やるによかったなぁと。機械は好きだ。今もコンバインとか全部自分で整備してる。
百姓も今は90%機械だしな。耕すにも、植えるにも、スリッパ履いて、エアコンかけて、テープ聞きながら、ラジオ聞きながら、田んぼにいてドライブしてるようなもんだ(笑)。手も悪んだけど何も支障ないしな。でも金はかかるんだ。俺はどうにかこうにか借金しないようにしてやっていけてるけど、今はあんまり機械化が進んで、機械にお金がかかるもんだから、力のある人しか百姓できねくなったの。昔は、畑と田んぼあれば、なんぼ田舎でも食べていくのにいい時代であった。
ここの田んぼは1丁5反歩くらい作ってある。うちさ近いから、天気崩れればすぐ逃げてくるにいいし、すぐ行けるし。だから多少の歳取ってもできるんだ。楽しいよ。農家育ちだってのもあるんだけど、やっぱり百姓はやってて面白い。今年は豊作なるのかならないのかってな。今年は近年にない豊作であったな。親父から継いでもう60年百姓やったけども、今年一番良かったんでねぇか。今年、稲の黄金色がすごい。青い米が少なかったんだよ、だからその分いい米。天気良ければ全部に実が入るんだ。暑くて、川の水が濁るような大雨もなかったから。(聞き手・藤原菜奈)
プロフィール
やまだ・しょういち
1937年7月18日生まれ。一の渡で農家の長男として生まれ、百姓一筋。北野天満宮の真下に家があり、屋号は「天神の下」。通称・天神の昭と呼ばれていた。