INTERVIEW 05

  • なぁなぁでは、できない。

    2016-03-14

    • INTERVIEW 05

    横倉に生まれ、靴屋に勤める

    生年月日は、昭和34年1月31日。戸籍は、な。実際は違うみたい。昔はずっと奥、横倉に住んであったの。その頃はバスもなかったし、町中に出て来るってみんな歩いてあった。だから産まれてすぐ届けなくて、10日くらい遅れているみたい。届けに行ったのがうちのおじいちゃんで、「いつ産まれました?」と聞かれて「1月の末だ」って、「じゃ31日ですか」って、「はいそうです」ということだそうです。母親の話によるとな。

    小学校は金沢小学校。足で通ってました。道路ができたのが小学生の時だったかな。それまで道路って山道だったから、車も通れない。昔は雪降るとすごかったよ。2階の窓から出入りするんだから、冬。今とは全然雪の量が違う。かんじきで親が通って、その上を俺らが長靴で走る、俺らが小学校のときはそういう時代ね。中学校も金沢にあったんだよ。小学校と中学校といっしょだった。うちら何年生の時だったかな、中学校が統合になったの。中学校も金沢にあったんだけど統合になったの。高校は二ツ井高校で、卒業してからは、『アキタエース』っていう靴屋さんの本社にいたんだ。俺の女房履いてる靴、ほとんど俺の手づくりの靴だよ。東京の本社から富根に戻ってきて、なんで辞めたかっていうと、親父が死んじゃったのよね。それで転勤の話を断ったんだよ。行ってたら俺の人生も変わってたかもしれない。間違いなく、この仕事はしてないだろうから。

    慣れてはいけない仕事

    『和サービスプラン』でやってるのは、火葬。斎藤と二人で全部やっている。楽しくやれる仕事ではない。よくみなさんに「もう十何年もやってりゃ、慣れたでしょ」って言われるけど、慣れる仕事ではない。ましては慣れてはいけない仕事だと思ってる。慣れてはいけない、なぁなぁでやってはいけない仕事だと思う。死んでも、火葬する前は生きてくる可能性ってあるんだよね。死んで一週間後に生き返ったという人間もいるから。稀だけどね、昔、外国でそういうのがあったんだって。だけど、火葬しちゃえばもう生き返ることって絶対無い。骨しかなくなるから。だから、なぁなぁではできないし、慣れてはいけない。

    東京で藤里のものを売る

    秋田県のアンテナショップが東京の品川にあって、産直で行くの。次は10月あたりかな。6月はね、野菜とか、タケノコとか。10月は栗、キノコと野菜系と。売れるよ。物さえあれば売れる。間違いない。値段さえ間違えなければ。東京だからってべらぼうに高くすれば売れないよ。高くてもいいものと、抑えなきゃならないものがある。区別はちゃんとつけないと、高いなって言われる。品川って、あの辺にスーパーなくて、他のとこに行かなきゃ買えない。それに、あそこOLが通るとこなんだ。会社帰りとか、昼ご飯食べに来るんだよ。OLが来ると、たいがい野菜は買ってってくれるね。キノコはね、おすすめはサワモダシとムキダケとナメコ。味はサワモダシが一番だよ。でもサワモダシは東京の人には馴染みが薄いみたい。ナメコだったら買ってく。9月の中旬か下旬には産直にも出始めるんだ。味噌汁とか、鳥のお吸い物に入れてジュンサイ入れて食べる。うまいよ。

    来年の3月は、在京藤里会がある。うちらの同級生も来る。在京でよく売れるのは、いぶりがっこでしょ、あとタケノコの缶詰、ぜんまい、ふき、わらび、山菜系統だね。いぶりがっこはね、どこ行っても売れるんだ。まして酒呑むとこは、持って行けばみんな買って、そのままつまみになるから。

    人伝いに広がるのが一番

    産直の売り上げはあんまり良くないんじゃないの。だから今、出張販売などして頑張ってる。待ってたって客は来ないから。ただ、会員の人数少ない中で、産直の当番やって、出張販売の当番やってってなるとつらいよ。町外のイベントにも行くんだ。行かねば、藤里で何が売ってるのかをわかってもらえないから。10回行ったって、10回とも全部黒字なるってことはない。でも、行かなければ、何売ってるか町外に広がっていかないでしょ。商売って、そういうもんだと思う。人伝いに広がっていくのが、一番いい伝え方だったばって。広告代だと思って行けばいいべっつう、それが俺の考えね。(聞き手・藤原)

    Interview / 市川和安さん

    昭和34 年横倉生まれ。『和サービスプラン』代表として斎場維持管理、町営墓地公園清掃、
    町営不燃物廃棄処理場管理、環境監視業務に携わる。産直あさひ会の副会長。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。