INTERVIEW 04

  • 川に来た人と話しするの、
    すごい生きがいだ。

    2016-03-07

    • INTERVIEW 04

    子供時代の一の渡

    生まれはここ一の渡、5人兄弟の長男。坊中小学校に通って、昭和29年に藤里中学校を卒業しました。子供の頃の思い出といえば、まずは小学校の小使い(用務員)がガラガラとならす始業のベルだな。小さい兄弟連れてって、自分の隣で子守しながら授業受けたことも思い出す。

    小学校の始めは戦争だった。手回しのサイレンがアーと鳴ると、頭巾みたいのかぶって神社まで逃げる訓練したり、夜はランプに黒い布かけて暗くしたもんだな。あと自分の家が農家でも自由にお米食べれなくて、お米に豆や草入れたり、夜はそば餅!嫌だった~。山に行ってはすもも、いちごやあけび、何でも食べたな。さしどり(いたどり)も、持ってる塩つけて。よその家のすぐりとって食べて、見つかれば怒られたり(笑)。井戸もあった。水くめって言われれば、一生懸命どっとどっととかめに水入れて。お盆とか豆腐や寒天自分の家で作って、「かどっこ」って呼んだ、湧き水につけて冷蔵庫代わりにしたな。小遣いも、親にもらわないで、子供たちで作った。山でせんぶり、田んぼでどじょうやはたけ(いなご)とって。

    冬なると罠でイタチ捕まえた。皮板にはって、市日に持って行った。皮買いってあって結構高く売れたよ。父は百姓。馬や牛も扱った。夏は放牧できるけど、冬は草食べさせないといけないから、高山もきれいな草刈り山で、ワイヤーで草おろしたんだよ。昔は林業も盛んだったから、馬は冬、木を山から運ぶのに使った。馬車もあったし、市日なんかの荷物の運搬も馬で、藤琴川沿いには馬車屋の小屋があった。それから牛が多くなったな。牛の方が高く売れたからかな。

    中学校へは歩いて通った。本当は危ないからダメだけど、太良鉱山からの「ガソリン」(列車)に飛び乗ったり。中学校は農繁期なると、黒板に名前書けば農家の子供は出席扱いで休める。学校さ行がねってもいって、ささっと書いてきたこともあったな(笑)。

    営林署と青春時代



    林業盛んだったから、学校の卒業と同時に営林署に入った。俺は藤里担当区の田中組。苗木を育てて植えたり、トラックで運んだ。最初の2年は炊事係。「山泊」っていって、各現場に泊まる場所あって。朝2時くらいに起きてご飯炊いて。昼の弁当つくって、仕事行って、夜ご飯つくった。3年目からようやく現場。営林署は4月~11月、夏だけの仕事だった。冬は出稼ぎ。北海道の夕張、栃木、神奈川と、本採用なるまであちこち行ったなぁ。

    若い時の楽しいことって、青年会ってあった。ここだと「中通青年会」。長男、女性は家さ残る、若い人はほとんど全部入る。で、芸能大会や運動会や、いろいろな行事があって、各地区集まっての大会もあった。仕事終わったあと、夜学校の体育館で練習して。テレビもなんもねーもん、おもしぇがったなぁ。芸能大会ってば、レコード買って、踊りの師匠頼んで練習したり、外に舞台かけて、お弁当とって。盆・正月はみんな帰ってくるし、人もいっぱい。見に来る人達も御花あげてくれて。マドロス(水兵さん)だの、やくざだの(の芸)やったな。他には、国体(昭和36年秋田国民体育大会)の聖火リレーさ選ばれた時やっぱ感激した~。大沢から矢坂まで走ったってねっけな。

    川と、自慢の中通!

    藤琴川、今はきれいだし、魚いるし、川歩くの楽しいべ。営林署退職してから、川も魚釣りも好きだったし、「早く退職しぇー」って言われてた漁業組合に入った。漁協では、アユやイワナの稚魚を放流したり、川の見回りや釣り券の販売をする。

    今県外がら釣りに来た人とかと話しするの、ものすごい生きがいだ。「あーまだ来たよー」とか「インターネット見で来たよー」って声かけてくれる人いるし、嬉しいよ~。だども俺のこどばわがらねんだど。津軽出身の人、通訳で来たこともあったな(笑)。台湾からも地震(東日本大震災)までずっと来てくれたお客さんいたよ。一番はじめは、昼食何食べるかなーとか、ウーロン茶飲むのかなーとかドキドキしたね(笑)。また来てもらいたいなぁ。

    あとは、じゃがぎ漁っていうのがあって、NHKが取材に来たことあった。冬、凍った川に雪を落として埋めていって、魚を捕る漁だ。今はそんなに寒くないし雪多くないし、なかなかできない。取材の人に「雪がいっぱいで楽しいですね」って言われて、しばらく冬の雪かきの時とか近所の人と「おら、楽しめどや~」って笑ったのも思い出だな。

    森のえきは、今はミズやたまびろ(ノビル)、春は山菜なんか、二ツ井の道の駅の値段見て安く出してる。せっかく来てもらって、地元のものないと寂しいしな。山にくれば安く買えるよってやんないとって思って。「ガイドの人が話してたのこれだ」って買ってく人もいるんだど(笑)。

    中通の人達も協力してるよ。いいところが中通には全部まとまってる。川や滝、山、温泉。それどう活かしていくかって思うなぁ。
    (聞き手・布川)

    Interview / 市川市治さん

    昭和14年一の渡生まれ。営林署勤務の後、粕毛漁業協同組合に参加、現在理事。交通安全協会にも長らく携わり、施設部長を務める。
    趣味はカメラ。箱型カメラ以降10台以上を保有。
  • 泣いたあとには、
    必ず笑うことがある。

    ここ端家で生まれました。6人兄妹だけど3人は亡くなって、3人姉妹の長女だ。私の人生だば、いろいろだあ。複雑だったし、漫画みたいなもんだな。父親は、小学校入る前に戦争に行って、それで1年生の時に戻ってくると、結核になって入院して、4年生んときから...

    Interview / 小山ミチさん

    昭和12 年、端家生まれ。農家、山の名人。25 歳で市日に初出店して以来、自身で育てた野菜や、山菜、キノコ、加工品の販売を続けている。お客さんの声を聞きながら、求められる味や育て方を探求している。
  • なぁなぁでは、できない。

    生年月日は、昭和34年1月31日。戸籍は、な。実際は違うみたい。昔はずっと奥、横倉に住んであったの。その頃はバスもなかったし、町中に出て来るってみんな歩いてあった。だから産まれてすぐ届けなくて、10日くらい遅れているみたい。「いつ産まれました?」と聞かれて「1月の末だ」って、「じゃ31日ですか」って...

    Interview / 市川和安さん

    昭和34 年横倉生まれ。『和サービスプラン』代表として斎場維持管理、町営墓地公園清掃、町営不燃物廃棄処理場管理、環境監視業務に携わる。産直あさひ会の副会長。
  • 川に来た人と話しするの、
    すごい生きがいだ。

    生まれはここ一の渡、5人兄弟の長男。坊中小学校に通って、昭和29年に藤里中学校を卒業しました。子供の頃の思い出といえば、まずは小学校の小使い(用務員)がガラガラとならす始業のベルだな。小さい兄弟連れてって、自分の隣で子守しながら授業受けたことも思い出す。

    Interview / 市川市治さん

    昭和14年一の渡生まれ。営林署勤務の後、粕毛漁業協同組合に参加、現在理事。交通安全協会にも長らく携わり、施設部長を務める。
    趣味はカメラ。箱型カメラ以降10台以上を保有。
  • 藤里の昔ながらの味を支える。

    長瀞(ながどろ)に住んでいます桂田成子です。生まれは昭和23年、同じ町内だけど、もうみんな引越していません。長場内(おさばない)から長瀞に嫁いだんですよ。結婚したのは若かりし頃、昭和44年だ。ずっと藤里町だけど、若いころ、ちょっと町を出たことがある。高校出て、2年くらい就職してきた。

    Interview / 桂田成子さん

    昭和23年、長場内生まれ。埼玉県で工場勤務を経て、昭和44年長瀞に嫁ぐ。
    平成18年よりみそ加工グループで働き、現在代表を務める。
  • 四十年住めば、自分も
    藤里の人って気持ちだ。

    あっという間でしたね。今なんか、藤里来てから勤めてた整備工場退職したし、ゆっくりしたなって感じだな。今は東京なんか行くと、空気が嫌だって思うね。この新鮮な空気吸ってると、いいなって思うな。移住したい人、もっと増えてもいいんじゃないかと思う。

    Interview / 山田弘一さん

    新潟県上越市高田出身、茨城県石岡市育ち。東京で車の整備士をし、結婚を機に移住。現在パートでふじみやドライバー& NPO ふじさと元気塾理事など地域活動に参加中。愛称ヤマコウ。
  • お客さんさ向かってる姿って
    素敵だよ。

    昭和27年6月21日、藤里町の藤琴で生まれました。床屋は私で三代目で、百年はなってるんでねぇか。俺で三代床屋で携わっているお客さんいっぱいいるよ。孫爺さん、親父、俺って、三代にやってもらったってお客さん。藤里中学校卒業後、秋田の床屋の専門学校...

    Interview / 菊地信雄さん

    藤里中学校卒業後、敬愛理容専門学校で学び、秋田の中央病院理髪部で修業。船上、東京で勤務の後、祖父、父から三代続く菊地理容所を経営。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。