INTERVIEW 09

  • 柔らかくて美味しいなって、
    つかむだけでわかるよ。

    2018-03-16

    • INTERVIEW 09

    「よいっこ」で助け合う。

    下萱沢は、まぁ人情味のある、すごく良い部落だな。私は中学終わった翌年に、親父を亡くしたもんだから、母と、私と、姉と妹。女性ばっかりで、まず男はたった一人であったんで、一家の柱になったんだ。その時は部落のみんなに世話なった。百姓であったからな。仕事もみんな、部落の助け借りて。屋根の萱葺きも、部落共同でやったもんです。その頃は20軒前後あったから、20年に一回まわってくる「よい(結)っこ」で助け合って、今度はここの家、次はどこの家、と順番で屋根の萱をふきなおした。農作業も助け合いで「あそこの家が遅れてるから、みんなで助けよう」って。

    一から始めた山菜の加工。

    百姓やってたけども、町で萱屋根をトタンに改造しなさいという時期があって、じゃあ大工もやろうかって15年以上やったな。その時に、この山菜加工場の建物も造った。それで、うちの棟梁が山菜加工組合の理事だったもんだから「じゃあ、おまえ、ここやれ」ってことで。

    大工から始めて、経営だからな。最初の4、5年は苦しかった。一から始めたから、物も思うように作れなかったんだよ。山菜を詰めた一斗缶を業者に50個送ってやれば、45個くらい戻ってきたことあったな。途中で腐って「これは駄目だ、使い物にならない」って。最初はそれくらいの技術もなかったんだよ。それが1年か2年続いて、原料は買わなきゃならないし、売ったものは返ってくるし、給料払うのも容易でなかった。何度も試行錯誤してやって、これでやればいいんだなというのができるまでが執念だった。

    いくらかでも藤里に現金を。

    その時にいろいろ考えた。やっぱり人は失敗すると考えるもんだな。昔はこういう風な加工ってしてなくて、塩漬けのまんまの一斗缶を出して、加工所さ売るだけだった。それをうちのほうで加工すれば、いくらかは手間になるということで、小さい缶とかで卸し屋とかスーパーとかに出すようにすればいいなと。加工すれば人も使うし、藤里へいくらかでも金が降りるように、そういう風にしたかったんだよ。みんなやっぱり、現金収入が余計ないもんだから。

    そうしたら『いとく』さんから「おぉ~おめの品物えぇな。これだったら、うちのほうでも売ってやるよ」と言われて。『いとく』さん、元は藤琴から出た人だから、地元から買いたいって、そういう思いがあったの。うちのほうでもやれる量が限られてるから『いとく』全店には出せないけど、県北のほうはほとんど置いてあるよ。まずまず評判良いようだ。「おめほのフキ食えば、ヨソのフキ買えね」って言うもの。

    喜ばれたタケノコの缶詰。

    それまで保存は塩漬けだったから、缶詰工場できたおかげで、みんなすごく喜んだもんだった。委託加工って、ここらの人みんな「これを缶詰にして下さい」って持ってきたのを、私が缶詰にする。今は少なくなったけども、昔はほとんどの家の人がタケノコ採りにいったんだよ。「遅くなったばって頼むでやぁ~」とかって夜の10時頃まで持ってくるの。7、8年くらい前かな。夜通し仕事で眠れなかった時もあった。もうタケノコの缶詰が山盛り。ここのは柔らかくて美味しいんだ。

    後継者欲しいなぁ。

    もう歳だから、この技術を教える後継者が欲しくて。私は一からで3年も4年もかかったし、それこそ毎日、何十年もやってわかることもあるけど、私の技術を教えていければ、1年くらいでかなり覚えると思うな。

    この山菜加工場を私がやって30年、山菜は昔っから食べてきたんだから、販売する気になれば、いくらでも売れると思うよ。私方の仕事は今、注文に作るのが追いつかねくて、宣伝もしてない。この工場、なくしたくないなぁと思うよ。設備もみんな揃ってるし、ほんとにいいんだけどな。(聞き手・藤原)

    Interview / 佐々木勇さん

    昭和16年、粕毛字下萱沢生まれ。
    米田小学校、藤里中学校を卒業後、百姓兼大工を経て山菜加工組合の代表になる。
    長年にわたり地域の防犯指導隊員も務め、平成24年に町の功労賞で表彰された。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。