INTERVIEW 12

  • 白土ワールドへようこそ!

    2018-03-16

    • INTERVIEW 12

    東京の少女と「釜石」

    産まれは東京、四人姉妹の次女です。父は社長をしていて、不自由のない暮らしだった。でもお妾さんに子供ができて、母は我慢できなくて1番上と下の娘2人を連れて、出身地の岩手に戻ったの。私は7歳で、東京で継母とも折り合いが悪くて、人間不信になって、人前で声が出せなくなった。すっかり不安定な子供になってしまって、中学二年の時、釜石の母の元に行ったの。

    釜石での暮らしはもう壮絶よ。母は遠野の名家の娘だったそうだけど、実家に戻ったら、祖母に「そこの関に身ぃ投げて死ね」って。それで女学校時代の友達を頼りに釜石にいって、漁師の作業小屋に住ませてもらってた。流れて来るワカメや昆布を拾って売ったり、ヨイトマケもやったって聞いた。母はとにかく、黙々と働く人だった。働いたお金を集めて、夜と明日の朝のお米買う生活。でもお母さんと一緒にいるってだけで、こんなに素晴らしいって思った。私も一生懸命昆布も拾ったし、浜にカモメを見つけては、ビチビチしているイワシを弁当箱に詰めて喜んで帰ったよ。

    母の教えとキャリアウーマン

    高校入学で、父に東京に連れ戻される時、母に言われたんだ。「男の人に頼らなくても自分で稼いで生きていける人にならないとだめだよ。男には負けるな、女の人には優しくね。」って。それを今までずーっと実践している。釜石の母はそれ以前に、姉と妹は震災の津波で亡くなったけど、釜石の2年は人生の最高の宝だと思ってる。

    大学卒業後は浜松で就職して、経営コンサルティングの会社の人材派遣部門の統括部長をしていた。バリバリ仕事をして、母のためにも金儲けしようと思って(笑)。24時間仕事を考えて、飛び回ってた。もう死のうと思ったことも、本当に色んなことがあった。でも逆境で、自分を知れたこと、自分で自分を奮い起こせるようになれたのは、良かったと思う。

    ホテルゆとりあ藤里

    平成6年にホテルができて、元々はスタッフを派遣してたの。その後自分も手伝うことになって、2代目の支配人になった。偉そうに、この町をどうするつもりだ!って、それはバッシングも浴びた。女性従業員にも嫌われてるっていうのは正直ショックだった。でも「白土ワールドへようこそ」って。「私を毛嫌いしてる人達、まっとうに働いて、何年かかってもいつか好きにさせてやる~!」と誓ったの(笑)。

    お客さんにも最初は「白神山地いいところですよ~」って、口だけで言ってた。でも、自分も見ておこうと思って岳岱に行って、400年ブナの前に立ったら、漫画みたいに涙がぼたぼた落ちて。それなりに苦労した気もしていたけど、自分ってすごいちっぽけだなって。それからここに、はまってるの(笑)。多くの人に、私みたいにブナの木に会って、何か感じてほしい。白神山地に来て、明日からまた頑張れるって思ってほしいな。

    感謝の気持ちとがっこ飯?!

    この町の中で、白土って呼び捨てにしてくれる人が何人かいるの。「白土―、食ってらが、寝でらがー」って。そんな風に気軽に声かけてくれるの大好き。いつも食べてなさそうだって、色んなものを届けてくれる人達もいる。みんなが面倒みてくれなかったら、今頃がりがりになって死んでるかも。他のエネルギー源は、白いご飯と白神山水とがっこのがっこ飯!学生時代の辛い時、お芝居の女優さんが一人舞台で、そんなご飯をかきこむシーンあったの。水かけて食べようとすると、みんなに「は~?!」って笑われる(笑)。でももらった漬物出して、泣きながらご飯食べると、明日からもがんばるって思えるんだ。

    藤里町にはあとどのくらいいられるかわからない。22年藤里町にお世話になって、感謝の気持ちをどうお返しできるだろうって、毎日考えてる。そして、ずっと母の言いつけを守って生きたいな。まだ自分の人生行きついてない。ゆとりあを退職するまでは、まだ藤里町ゆとりあ編なんだ(笑)。(聞き手・布川)

    Interview / 白土延子さん

    昭和26年、東京都生まれ。人材派遣会社を経て『ホテルゆとりあ藤里』支配人。
    地域行事への協力、社会福祉協議会のマナー講師、公務員試験面接員なども務める。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。