INTERVIEW 10

  • 高山クラブの会長、
    もうひと頑張りだな。

    2018-03-16

    • INTERVIEW 10

    海のそばで産まれて。

    7人兄妹の2番目、長女として、旧・峰浜村の水沢で産まれました。子どもの頃は、浜に遊びに行くこともあったよ。母親が健康でなかったから、私が一番上の女の子だすべ、妹がた学校行ってるし、学校終わって兄弟の面倒みて、って生活してた。親もそれではかわいそうだからって、青年会入れてくれて、踊りに行ったり、遊びに行ったり。戦争もあったけど、家では父が塩作って、塩とお米を取り換えて、ままけねとか腹減った、とかはなかった。塩は、浜にみんな小屋建てて、大きな鍋で煮て作った。最後はゴザで乾燥させて。パラパラと、きれーなものであったよ。

    藤里町のお百姓さんへ嫁ぐ。

    夫の茂太郎さんとの出会いは、昔、材木所の事務所に頼まれて行ってたの。事務所と飯場で帳簿つけたり、販売や給仕をしていた。茂太郎さんの姉さんの旦那さんが私を見初めたんだね。俺の両親は、百姓したことないのを大した心配して、実家のご飯時には、大丈夫だべがって、しばらく気にしてくれたようだ(笑)。

    23歳で嫁いできたのは「さました」の家。昔、家の上のほうに殿様がいたって聞いた。それで屋号が「さました」。義理の両親いて、夫の下の弟妹4人いて、にぎやかだったよ。やったごとなかった農作業は難儀もしたけど、茂太郎さん面倒見良かったし、馬ベコの餌の乾燥した草を背負わせてもらったり、田んぼは近所の結っこで行ったり来たり。姑ばあさんもよく面倒見てけだ。子どもできてからは、午後は田に出なくてもいいって、昼間から体休めにいがったず。近所の人も「さましたの姉ちゃ、なんも百姓もしたごとね人だばって草背負って歩いたり、田ーやるより頑張るー」って話してけで。他のお嫁さんからは「俺の姑、あてこすりで、おめのごと褒めるったおなー。俺のごとなんぼ頑張っても良ぐ見えねして」って言われて「あいーすかだね……俺にがっておめ難儀するなー」って話したこともあった。姑ばあさんは人っこ良がったから、幸せだったなーと思う。

    出稼ぎも人に恵まれた。

    夫は農家もやったけど、田んぼ終わると、北海道に山仕事の出稼ぎに行った。山がちょっとダメになってからは関東で土方。自分でも、子育て終わって孫も産まれてから、10年家政婦に出た。夫と上野駅で別れて、お盆や正月は一緒に戻って。相撲部屋の親方についたこともあった。親方は気難しくて、私で家政婦55人目(笑)。「田植えだから家に一旦帰らねばね、あでならねがら違う人頼んで下さい」って話したら、帰る日の朝、涙ぐんでくれた。「石田さんのように言葉っこかけてくれる人いいな」って、大事にしてもらった。その後、亡くなるまで私ついて見送ったよ。人に恵まれたなと思う。

    「さっとやってけれだゃあ」。

    老人クラブ(高山クラブ)との関わりは、61歳の時。出稼ぎを辞めて家でのんびりしようとしてたら、近所の当時の会長に、会計と女性リーダーを頼まれたの。その後に会長が亡くなったり、誰もやる人いなくて、一度引き受けたら「もうさっとやってけれだゃあ」で10年。まず義理・人情でやってるった(笑)。

    昔は宴会も多かった。飲んでカラオケで踊って、せば奥さん転ぶって心配するけど、畳だから大丈夫だぁってしたり。ある程度の時間になると家族迎えに来るけど、まだ飲むってごんぼほった人もいた(笑)。旅行も行ったよ。今は4月の総会やたんぽ会、グランドゴルフの大会。高山クラブは今15人。若い人にも入ってもらわないと高山クラブつぶれちゃう!って言ってるんだけど、なかなかだ。これからは、ボケないように元気でいたいな。町外の娘のとこに泊まりに行っても、2泊もすると家が恋しくなる。皆さんに頑張ってけれって言われるのありがたいし、やっぱり老人クラブの会長としても、もうひと頑張りだな。(聞き手・布川)

    Interview / 石田圭子さん

    昭和9年、旧峰浜村水沢生まれ。昭和32年に藤里町に嫁ぐ。高山クラブ会長を務め10年になる。
    畑で採れた野菜や山菜を『白神山地 森のえき』に出品している。お手製の切干大根は柔らかくて美味しいと評判。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。