INTERVIEW 01

  • お客さんさ向かってる姿って
    素敵だよ。

    2015-11-20

    • INTERVIEW 01

    三代続いた床屋の跡取り

    昭和27年6月21日、藤里町の藤琴で生まれました。床屋は私で三代目で、百年はなってるんでねぇか。俺で三代床屋で携わっているお客さんいっぱいいるよ。孫爺さん、親父、俺って、三代にやってもらったってお客さん。藤里中学校卒業後、秋田の床屋の専門学校敬愛理容高等学校の理容科で一年学び、卒業後は一年のインターン期間のあと国家資格を取って、またインターンの店に五年間勤務した。これが修業。ずっと住み込みで働いていた。

    中央病院での修業時代

    修業時代は、秋田の木内デパートのところで修業してたけども、あのお堀さカミソリ三丁くらい投げてる。もう床屋やめるって。それだけ修業時代はたいへん。要は刃物使うから。同業の人がた、かなり途中で挫折したんでねえかな。俺も帰ろうと思って秋田駅前まで行ったこともあったな。だけど、帰る電車がなかった。田舎さ来る電車ってもうないのよ。だから辞めなかった。

    ちょうど覚え始めの二年くらいまでがやっぱりつらいな。三年目なればだんだん慣れてくっからまだあれだけど。昔は「見て覚えれ」でしょ。仕事一年間はさせてもらえねえから、床掃いたりタオル洗ったりそればっかり。それで先輩方の仕事をたまに見て覚える。一年過ぎて初めてお客さんに接したのがシャンプーとかドライヤーとか。刃物使わない部分から入っていく。売り場を広げるからって四年目で支店に出された。中央病院の中の理髪部だから、お客さんは病院の入院患者だよ。交通事故が起きて頭骨折したとかなれば、手術する前に剃ってけれって。手術した人運ばれてるもの、だいたいストレッチャーさ乗っけてくるときは陥没してるとこさ下にしてるべ。なんともないとこ、見えてるとこだねが。そこをまずざっと剃るわけよ。して、反対側をやるってば、脳みそカパッと陥没してる。「おわっ」とも思っても、やらなきゃいけないでしょ、一分一秒だもん。でかして帰ってくれば家族の人は泣いてるしな、何とも言えない。中央病院入ってそういう患者さんやったてのは、修業時代で一番印象に残ってるな。

    活気があった親子四人の床屋

    修業が終わった後は海外に一年間行った。十九歳くらいだった。スペイン、カナダ、ドイツ、フランス、アメリカと五ヵ国。船の乗船者の頭を刈りながら、行く先々の国の日本人の床屋を見てきた。戻ってからは東京の店さ行った。三年契約だったんだけども、二年半でうちの爺さんが亡くなったもんで急遽戻ってこなきゃいけない状態になった。戻ってきてからはまず親父・お袋・俺の三人でやっていた。そんで一年半でかみさんもらって、親子四人でやっていた。

    俺が帰ってきたころは、藤里町にも八千人くらいの人があった。そのころはお客さん毎日入るし楽しかったべな。朝六時から夕方の六時までやって、一人一時間かかるから最大十二人しかできねぇ。パンだのかじりながらずーっと切ったこともある。たいへんだよ、立ちっぱなしで。それもまた嬉しい悲鳴だ。お客さんいれば楽しい職業。

    一大決心して店舗建替

    今から二十六年前に家と店舗を直したのよ、自分の代でなんかやりたいって。三十七歳の時に、これから車の時代が来ると駐車場がないと絶対だめだって決意して。道路から店舗を下げたったよ。あのときは、なんで店後ろさ下げるって商店街の人方から言われた。だって俺は、俺の店は昔っからもう三代目だから場所は黙ってもあるってみんなわかってぺ、しぇばあと車で来る人迎え入れる形つくんねばいけねぇべってしゃべった。今思えばいいことやったなって思うな。

    昔のまんまの場所で仕事してる店の、すぐ裏から新しい店と住宅が建ってるったよ。しぇば、一回も休まねえんだ。新しい店舗を立ててる間、ずっとそのままの店舗で仕事していた。それで休みの日、一日で店を倒して駐車場にしたったよ。普通は店舗新しく作るてば何日か休むけど。駐車場はできるし、店も家も新しくできるし、休まなくていいっていう、画期的であった。

    昔の店舗を倒したときには新しい店さできてるんだもから。できてる状態がなんも見えてない状態でつくってるから、おめぇすごいことやるだなぁってびっくりしてあったよ。

    夫婦で床屋をする幸せ

    かみさんも床屋の学校の同級生。同級会やるから連絡取り合って、人集めしようと連絡したのが始まり。帰ってきてまもなくだ。修業場所違うし、卒業してから話もしてなかった。床屋の娘だけど、一般の人と結婚しようとしてあったの。それで俺が同級会の話してるうちに「私、床屋してぇった、だども今の付き合ってる人一般の人で床屋できねくなる」って。「やめれやめれ。床屋してぇったら、俺さ来い」って喋ってしまったために、もらうしかねぇべ。ほんとそれが正解。

    休日もかみさんと出かけるから、三六五日ほとんど二人一緒だ。喧嘩もねぇ。もし喧嘩したとしても、お客さんの前でそういう顔だされねぇべ。ばんばん口げんかしてやりあっても、お客さん前さ行けば、はいどうも~って、これで終わるもの。これはいい職業でねぇかなと思う。いつでも一緒に仕事してるそのものが、幸せだなぁと思うよ。お客さんさ向かってる姿ってすごく素敵だよ。たぶん彼女も俺のことそう思ってるんでねぇが。仕事してるときの状態見ると、あぁ一緒に仕事してよかったと思う。

    父の背を見て床屋になった娘

    娘三人いるけども、二番目と三番目は床屋さなってるのよ。床屋やりたいっちゅうことで専門学校で修行させて、今から5~6年前、二番目の娘に「お父さん私どうすればいい?」って言われた。将来的に自分も私らみたいに夫婦で二人で床屋をやってくっちゅうのが理想であったらしいんだ。でも、男の床屋さんって少ないのよ。俺らはふたりだから話しながら、暇な時も話しながら、忙しい時も飯食わないで頑張ろうってそういう型をつくってきたから、一人で床屋さんっていう仕事やる状況が私も判断できねかったし、娘さもうこれ以上の苦労はさせたくねぇなと思って、好きな人いたら結婚してもいいよって言ってしまったのよ、さ。そしたらもう、羽っこついたようにすぐ結婚した。三番目の娘は秋田さ嫁になって、秋田の床屋に勤めながらやってる。完全に道離れたわけじゃない。将来的に戻ってはこないと思うけど何かあった時にはすぐ帰って来るからな、それでいいんでねぇかな。『たろっぺ』っていう本あるんだ。詩集。これ子どもがたが書いて、娘二人全部「お父さんの背中」とかや「お父さんのようになりたい」って書いて載ってるのよ。うれしすてや。

    町に人に恩返したい

    俺もだんだん歳行けば、この町さ恩返ししたいなという気持ちある。ただもう少し仕事したいな。それでかみさん元気なうち、身体丈夫なうち、もう十年はなんとかできるんでねぇかな。俺は基本的に床屋っていう職業好きだし、ありがたい職業だな。健康である限り頑張っていって、最後は町に人に恩返しして終わりたいと思う。(聞き手・藤原)

    Interview / 菊地信雄さん

    藤里中学校卒業後、敬愛理容専門学校で学び、秋田の中央病院理髪部で修業。
    船上、東京で勤務の後、祖父、父から三代続く菊地理容所を経営。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。