INTERVIEW 02

  • 四十年住めば、自分も
    藤里の人って気持ちだ。

    2016-02-20

    • INTERVIEW 02

    東京から藤里へ


    昭和21年、東京の家が空襲で焼けたっていうんで、おふくろの実家、新潟県上越市高田ってところで産まれた。横倉みたいなとこだな。その後親父の実家のある茨城県石岡市で中学まで育った。五人兄弟の上から三番目。長男です。その後、東京に出て車の整備をしていました。同じ会社の先輩で同じ寮で赤提灯で飲んだりする仲間に、二ツ井の荷上場出身の人いたの。その人が俺のこと見込んだんだなー(笑)。いとことお見合いしてみないかと。俺も東京にずっと暮らしていて、これから結婚して生活するのは、田舎がいいなと思ってた。30歳で目覚めた(笑)。で、来てみねぇがと。

    これも言っていいのかな、東京にいだ時ね、ミスコンの準ミスがいるがらお見合いしてみねが、という話だった。ドキドキ胸が高鳴って、というのもあっだな(笑) (準ミスはいっぱいいだった:奥様談)。で、上野から正月の一日か二日に乗ったのかな~。仕事終わって夜行列車の津軽に乗って、列車はいっぱいで、四人掛けのひとつに座らせてもらって、酒ごちそうになって、福島あたりまできたのがなー、俺何にも持ってなくて、荷上場に持っていくお土産出してしまったんだな。で、かなり飲んで酔っ払って身支度に時間がかかって二ツ井で降りる予定が鷹巣まで行ってしまった。駅から公衆電話で電話したな。これが秋田に来た第一歩だ(笑)。雪がおもしろかったな~。その時、ロングヘアでダブルの背広来て、高い靴はいて、スノーダンプで雪かきした。今でも記憶がよみがえるな。結婚はそれでもう、俺で良ければ、って。おふくろは雪深い雪国育ちだから、秋田で暮らせるか心配はあったみたいだな。それから東京戻って半年くらい、51年の6月に引越して、結婚式をあげた。

    地域の人とつながって



    来た当初は言葉がわからなくて、30でホームシックになったな。仕事はわかるけど、言葉がわからなくて会話っていうか難儀したな~。でかす(完成させる)、とかな。あと、車買った時「いちのこめに」って言われて、一の米?新米を売って買ったって意味か?古米は二の米か?って思ったりしたな(笑)(いちのこめ=いつの間に)。 今は俺も神奈川の姉にずいぶんなまったわね、と言われる。

    そんな中で、朝野球に誘ってくれる人がいて、地域の人と関わりができ、仲間ができた。中通カープ三代目監督もやった。何が大変って、朝五時半集合とかだとメンバー寝てるわけ。携帯もないし、監督といっても球場の近くの公衆電話でみんなを起こす係だったな(笑)。

    消防団にも入った。昔の第5分団。35歳のどき、近所の人やめるってんで、昔は人勧誘するのに、一升瓶持ってくるんだな。酒飲ませて承諾させるっていう。PTA会長の時は酒と寿司だったかな。かみさんは絶対受けるなと言ってたけど(笑)。
    第一期ラッパ隊もやったな。各分団二人で、能代から軍隊でラッパ隊やってたって人が週に二回来て。唇だけで、全部の音出すんだよな。鳴らせるまでも大変であった。唇から血が出るくらい練習した。大会があればファンファーレ鳴らしたり、表彰、分列行進、出初式。今はトランペットかもしれないけど、今でもできるくらい覚えでるな。分団長も5、6年やった。規律訓練で第2位なって、みんなで喜んだ。その他には田植え。みんな並んで手で植えていくんだけど、自分はできないから、ねっこ(苗)を投げる係だったな(笑)。あとはPTA繋がりだな~。子どもができたし、やっぱり学校があれば、親達で一献かわしながら、みんな若かったし、色んなことやった。運動会や高山登山や地引網や、楽しかった。

    元気の秘けつ

    趣味はものづくり。郵便受けから、車庫のログハウスも自分でチェーンソーで木を切って、一年半くらいかかって。退職して自分の好きなことやりたくって、夢中でやったな。他にも色々作ってる。ふじさと元気塾は、もともと成陽(成田陽悦氏)と厚雄(石田厚雄氏)たちと子供達のために、太鼓や夏祭りやったりしてて、俺はその繋がりで参加している。最初のころは清流を守る会で河川の清掃や草刈りや、そんな事からやってたな。草刈りは今元気塾でもやってるよ。朝の5時から2時間くらい。黒ニンニクは、ふじさと元気塾でも何か特産品をっていうんで、やってみている。ポリフェノールは普通のニンニクの十倍。血液サラサラ、美肌効果もある。これを何とかできればな。段々とみんな歳いってきたけど、藤里町を元気にしようって感じだな。

    藤里で四十年



    あっという間でしたね。今なんか、藤里来てから勤めてた整備工場退職したし、ゆっくりしたなって感じだな。今は東京なんかいくと、空気が嫌だって思うね。この新鮮な空気吸ってると、いいなと思うな。移住したい人、もっと増えてもいいんじゃないかと思う。「そんじょそこらの自然でねってば」、て昔ポスターあったけど、自分が藤里を紹介する時しゃべってみたりする。復活すればいいなと思ってる。四十年もいれば、藤里町は自分が住んでいる場所、生活する場所だな。藤里の人だ、って気持ちもあるし。人口が減ってるのは寂しいな。都会と違って、結っていうか、隣近所の繋がりがあるのはいいな。後は今のまま元気で、温泉入って晩酌できて、あと巨人が勝ってっていうのがいいな(笑)。今やっている事を若い人達にバトンタッチしていきたいし、若い人も地域の活動に顔出したりして、元気な町になってほしいな。(聞き手・布川)

    Interview / 山田弘一さん

    新潟県上越市高田出身、茨城県石岡市育ち。東京で車の整備士をし、結婚を機に移住。
    現在パートでふじみやドライバー& NPO ふじさと元気塾理事など地域活動に参加中。愛称ヤマコウ。
※聞き書きとは、「一人の話し手」に「一人の聞き手」が質問し、答えたものを相手の話し言葉(一人称)で表す方法です。