当時はまだ藤琴村だったの。私が昭和38年に嫁いだ時には、「藤琴村」って住所で祝儀のハガキを出してね、結婚して籍に入ったのは「藤里町」でした。2013年、町制50周年だったでしょう。あの年に私達がちょうど金婚50周年であって、藤琴と粕毛をつなぐ橋ができたのも昭和38年だったと思います。結婚式で日本髪のかつらで橋を渡って、「今年できた橋だよねぇ」と言った記憶があるから。
生まれた場所は藤琴村藤琴の山根(現在の愛宕町)で、太良鉱山からのトロッコがうちの部落を走ってたのよ。停車場、営林所の事業所みたいなところがあって、藤琴で一番栄えてあったの。営林署の独身寮もお店もいっぱいあって、営林署の若い人から卓球やダンスを習ったりね、運動会やっても何やっても藤琴の山根が一番であった。
うちは九人兄弟。姉は一人早く亡くなったけど、私は真ん中なのよ。両親は魚屋さんだったけど辞めて、父親が営林署の貯木場の親方みたいなことをして、それまでは良かったんだけど私が中学一年生の時に父親が亡くなって、それからどうするって、私は東京で就職するつもりでいたんだけど、家から離れることができなかったの。
母親一人で8人の子ども育てていくって、鬼にも蛇にもならねばねったもんな。40歳で8人の子だよ。貧乏のどん底まで落ちて、生活保護を受けたらどうだかって言われたこともあったようだけど、時代が時代で、当時は生活保護って言えばみじめに思われるものだったから、そういう思いを子どもにさせたくないって「生活保護もらわねぇでみんなで頑張るべ」と歯くいしばってきたんだな。朝・夕は畑で、昼間は土方、夜は針仕事してあった。うちの母親は何でもやってすごいもんだったなぁと、親を褒めたたえるのもおかしいけど、一番尊敬しています。
社協さんに入る前、鷹の巣の刺繍屋さんで、女性50余人くらいの上で中間管理職してあったの。会社入って半年でミシンから降ろされて、指導の方に異動になった時は「なんで私なの。私よりできる人がいるじゃないの」って思って、でも違うって社長に言われたの。「入ってきたときに、お前が男ならいい男であったろうなって気持ちで見てた」って。私、女だよって(笑)。仕事も人間関係もつらくて、旦那に見せないように何度泣いたかわからない。でもそれが今自分のためになってると思う。
ここの部落の女性で初めて車の免許取った時も、近所のおばあさん方に「あっこの嫁っこ、男みてぇだ」って言われたなぁ。その後からだんだん女性も免許取る人増えたけど、私が粕毛の第一号。今だったら普通だけど当時は笑われたもんだ。それから社協さんで勤めたの。最初は厨房に入ったのに「あんたは現場向きだよ」って言われて、そのまま現場。でも現場に私の親と同じ年代の人達がたくさんいて、ああいう人と接触して良かったなぁと思ったのね。そのときに私ふっと、ここ終われば何かしら粕毛の部落でやりたいって夢ができたの。
「和みの会」は立ち上げて2年目になる。家族がいても、学校や仕事に行けば、家でおばあちゃん一人になっちゃうでしょう。そういう人達が集まって、たった月1回でも、みんなでいろんなことして、あはほほって笑うの。一緒にご飯作って、食べて、折り紙や割り箸で飾りとか作ったり、軽い体操したり。最近は22、23人くらい集まってるよ。立ち上げた時、旦那に「あんたのこと好きでない人もいるだろうし、人にあぁだこうだ言われることもあるだろうけど、いいのか」って言われたの。でも今はやって良かったなぁって思ってる。今月は何だろうって、みんな楽しみにしてくるの。
今はね、身体二つあっても足りねぇなと思うくらい、いろいろやってるのよ。でも今一番は「和みの会」だ。全町のこともいいけど、やっぱり地域のこと何かしらやりたいなぁっていうのが私の願望であったから、これは頑張っていきたいと思ってる。一人では何もできねったって。家族だって、うちのお父さんのおかげで私わがままできた。苦労はいっぱいしたけど、うちらの時代はみんな当り前だって言うと思うよ。立派なことも言えないけど、仲間に助けられて、お世話になりながら、とじこじ頑張りたいです。(聞き手・藤原)